旅行ガイド けいようちく
慶陽地区の概要
がいよう
けいようちく
”ろうとうきたひがしみなみきょうさいしょう
慶陽地区は甘粛省東部にあり、通称“隴東”といわれ、北、東、南は陜西省
かんしゅくしょうとうぶ
つうしょう
ねいか
せっ
めんせき
せいれいし
けいよう
はないけ
ごうすい
ねいけん
と西北部は寧夏と接している。面積は27,119㎢で、西峰市と慶陽、華池、合水、寧県、
せいねい
せほくぶ
正寧、鎮原の7つの県からなり、地区行政公署は西峰市にある。総人口は250万人、漢族、回族、モンゴル族、満州族など20あまりの民族が住み、漢族は98%以上を占めて
ぞく
まんしゅうぞく
みんぞく
す
かんぞく
パーセントいじょう
し
ちんげんけんちくぎょうせいこうしょせいれいしそうじんこうまんにんかんぞく
かいぞく
いる。
れきし
ぶんか
歴史と文化
けいようちく
慶陽地区は、古代人類の主な生存地で、旧石器時代の遺跡文物が数多く発見されて
もっともふる
いま
まんねんまえ
あたら
まんねんまえちゅうでもせいれい
こだいじんるいおもせいぞんちきゅうせっきじだいいせきぶんぶつかずおおはっけん
いる。最も古いものは、今から10~20万年前、新しいものでも3~5万年前中でも西峰
きょか
かんけん
りゅうけとりで
ろうぼうこ
ちんげんけん
きょけわん
じこう
ひじょう
かち
の巨家、環県の劉家堡、楼房子、それに鎮原県の姜家湾や寺溝は、すべて非常に価値あ”こうがる石器時代の遺跡である。中国で最初に出土した石器は環県趙家岔のものである。“黄河
せっきじだい
いせき
ちゅうごく
さいしょ
しゅつど
せっき
かんけんちょうけた
”かんえよくりゅうかせきけいようけんきたりきたさんじゅうりほしゅつど古象”は合水県で発見され“環江翼龍”の化石は、慶陽県の北30里の北三十里鋪で出土
こぞう
ごうすいけん
はっけん
した。すべて慶陽が長い歴史を持っていることの証である。又、慶陽は多くの歴史的著名
はいしゅつ
ちゅうごくいがく
そ
こうてい
い
とい
きはくろう
とうかん
ちょめい
けいようながれきしもあかしまたけいようおおれきしてきちょめい
人を輩出している。中国医学の祖で、黄帝が医を問いたという岐伯老、東漢の著名な”ぶんしんかんしせいとうしゅちょうみんだい思想家で文学者の王符、魏晋時代の政治家博玄、“文は秦漢、詩は盛唐”を主張した明代
しそうか
ぶんがくしゃ
おうふ
ぎしんじだい
せいじかはくげん
”ぜんななこりむようぜんぶんしょがたいかまいまんしょうきょうかんねいへんくかくめいの“前七子”のリーダー李夢陽、全文書画の大家米万鐘などがいる。陜甘寧辺区は革命
時代多くの革命家同志が集り真理を追究し、奮闘したところである。
おも
ぶっさん
じだいおおかくめいかどうしあつましんりついきゅうふんとう
主な物産
地区内には670.8万畝(4,427㎢)の耕地、717.6万畝(4,736㎢)の森林があり、緑地
めんせき
そうめんせき
し
もくざい
ほゆうりょう
まん
そうげん
まんぽ
ちくないまんぽこうちまんぽしんりんりょくち
面積は総面積の22.5%を占め、木材の保有量は1,076万㎡になる。草原は1960万畝で
どうぶつ
しょくぶつ
しげん
ゆた
のうさくもつ
こむぎ
しゅ
(13,000㎢)、動物、植物の資源が豊かである。農作物は小麦を主としトウモロコシ、”ろうとうしょくりょうそうこ
コーリャン、ジャガイモ、煙草の葉、薬剤などが盛んに生産され、“隴東の食糧倉庫”
たばこ
は
やくざい
さか
せいさん
ともいわれている。その他、黄花、リンゴ、クルミ、杏、梨、ナツメ、桃なども多く、黄花
さい
こっかけいざいぼうえきぶ
たきいばなあんずなしももおおきいばな
”せいほくとくさんひんきんしさいさだおうとうしん
采は国家経済貿易部から“西北の特産品金針采”と定められている。黄桃、晋ナツメは
けんじょう
そうかつ
うし
けいよう
かんけん
なだひつじ
し
やせい
かつて献上品だった。早勝の牛、慶陽のロバ、環県の灘羊、はよく知られている。野生
どうぶつ
動物は170種余り、そのうち22種は特別保護動物に指定されている。主な鉱物資源は石油、石炭で石油に埋蔵量は約7,900万 水力薀蔵量は約1.52万kwである。
かんこう
せきゆ
まいぞうりょう
やく
まん
すいりょくうんぞうりょう
やく
しゅあましゅとくべつほごどうぶつしていおもこうぶつしげんせきゆ
せきたん
観光スポット
北石窟寺
きたせっくつじ
北石窟寺は慶陽の数ある石窟の中でも規模が大きく、保存状態のよい芸術の宝庫である。董志 西部の覆鏡山の麓にあり、蒲河、茹水が寺の回りを取り巻くように流れ、
やま
とうし
せいぶ
おうきょうさん
ふもと
ほが
ゆすい
てら
まわ
と
まく
なが
きたせっくつじけいようかずせっくつなかきぼおおほぞんじょうたいげいじゅつほうこ
山や崖や丘陵で囲まれている。境内には古い大木が天高くそびえ、木々が鬱蒼と茂り、
せいれいし
2
5
は
せじゃく
ち
がけきゅうりょうかこけいだいふるたいぼくてんたかきぎうっそうしげ
西峰市から25km離れた静寂の地である。
ここは俗に大仏寺とも言われ、北魏永平2年(509年)創建され、45㎞離れた南石窟寺と姉妹窟である。5世紀頃から、6世紀にかけての北魏拓跋氏の時代、仏教信仰は非常に
さか
しまいくつ
せいきころ
せいき
ほくぎたくばつし
じだい
ぶっきょうしんこう
ひじょう
ぞくにだいぶつでらいほくぎえいへいねんねんそうけんはみなみせっくつじ
盛んで、都洛陽には寺院が林立、州、府、郡、県でも盛んに寺院が建立され、僧侶の数は全国で200万人にもなっていた。相次いで寺院が建設され、土木工事が始まり、支配者階級はその機をを利用して重税をかけ、強引に取り立てたため、各地で民衆の猛烈な
お
とうじ
とうしいったい
けいかわ
かんかつか
ほくぎのりぶてい
えいへいねんかん
き
りよう
じゅうぜい
ごういん
と
た
かくち
みんしゅう
もうれつ
ぜんこく
まんにん
あいつ
じいん
けんせつ
どぼくこうじ
はじ
しはいしゃ
みやこらくようじいんりんりつしゅうふぐんけんさかじいんこんりゅうそうりょ
かず
かいきゅう
はんこうとうそう
反抗闘争が起こった。当時、董志一帯は涇河の管轄下にあったが、北魏宣武帝の永平年間
けいしゅう
のうみんちんみ
そうりょりゅうけいおう
いっき
ぜんご
お
おうしょうさん
(508年~512年)、涇州で農民陳瞻、僧侶劉恵汪の一揆が前後して起こった。覆鐘山
む
やま
ちゅうふく
おお
どうくつ
りゅうけいおう
いっき
お
とき
かくさくばしょ
の向かいの山の中腹にある大きな洞窟は劉恵汪が一揆を起こした時の画策場所であるという。朝廷は華州刺史奚康生に一揆を鎮圧させ、涇州刺史に任じた。涇州刺史になった彼は意外なことに態度が一変し、仏に帰依し、家を喜捨し、寺や塔を建て、善行を
おこな
かれ
いがい
たいど
いっぺん
ほとけ
きえ
いえ
きしゃ
てら
とう
た
ぜんこう
ちょうてい
かしゅうししけいこうせい
いっき
ちんあつ
けいしゅうしし
にん
けいしゅうしし
行った。北石窟寺はその涇州刺史奚康生の指揮で北魏永平2年(509年)に開かれたもの
どうじ
みなみせっくつでら
ひら
りょうてら
きた
みなみ
わ
はるかとお
む
きたせっくつじけいしゅうししけいこうせいしきほくぎえいへいねんねんひら
である。同時に南石窟寺も開かれた。両寺は北と南に分かれて、遥か遠くから向かい合っている。今、僧はいないが、仏の火は消えていない。
あ
いま
そう
ほとけ
ひ
き
北石窟寺は、開鑿以来、西魏、北周、隋、唐、宋、清の各時代に相次いで開かれ、内容も豊かで、その規模も頗る大きい。長さ120m、高さ20mの赤い砂岩の崖に、上中下の
さんそう
ゆた
きぼ
すこぶ
おお
なが
たか
あか
さがん
がけ
じょうちゅうげ
きたせっくつじかいさくいらいにしぎほくしゅうずいとうそうしんかくじだいあいつひらないよう
三層に分かれて295の窟龕が蜂の巣のように穿たれている。中には2125体の像があり、岸壁には桟道が渡され、甘粛省の数ある石窟の中でも、最も集中して開鑿されてい
せっくつぐん
さんどう
わた
かんしゅくしょう
かず
せっくつ
なか
もっと
しゅうちゅう
かいさく
わくつがんはちのすうなかたいぞう
がんぺき
る石窟群である。
第165窟は北石窟寺の粋であり、代表窟である。窟群の中ほどにあり、とても大きく、高さ14m、幅21m、奥行き15.7m、4,500㎥の空間がある。中には大きくて精巧で
うつく
たか
はば
おくゆ
くうかん
なか
おお
せいこう
だい165くつきたせっくつじすいだいひょうくつくつぐんなかおお
美しい彩色された像があるが、国内のほかの窟では見られない貴重なものである。七尊
さいしょくぞうこくないくつみきちょうしちそん
りつぞう
立像の中の大仏は高さ8mで、がっしりと逞しく、そして力強く、内面の精力がほと
みろくぼさつ
ぞう
の
ふげんぼさつ
たか
たい
きょう
なかだいぶつたかたくまちからづよないめんせいりょく
ばしっている。また、6mの弥勒菩薩と象に乗っている普賢菩薩、高さ4mの10体の脇
じぼさつ
ぞうけい
ゆうが
み
もの
げんしゅく
きぶん
いだ
侍菩薩は、どれも造形が優雅で、見る者に厳粛な気分を抱かせる。最も素晴しいのは、
みなみがわ
南側にある像に乗る普賢菩薩で石彫りの白い象は美しいばかりでなく、今にも動き出し
ぞう
うえ
ふげんぼさつ
ほうかん
いただ
むねかざり
つ
つや
おち
つ
ばら
ぞうのふげんぼさついしぼしろぞううつくいまにもうごだ
そうである。像の上の普賢菩薩は宝冠を戴き、胸飾りを付け、艶やかで落ち着き払い、おっとりとした笑みを浮かべている。肩に羽織っている羽衣は、蝉の羽ように薄く、透き
とお
え
う
かた
はおって
はごろも
せみ
はね
うす
す
通ったシルク風に表現され、風が吹くとなびきそうである。像を引くものは満足そうに跪き、、後ろに従っている弟子は片足をつき、手には数珠を持ち、誠心誠意菩薩に仕え
うし
したが
でし
かたあし
て
じゅず
も
せいしんせいいぼさつ
つか
ふうひょうげんかぜふぞうひまんぞくそう
ひざまず
ている。
ちょうこくいがい
くつ
おお
なが
たか
彫刻以外にも、165窟には大きなレリーフがある。長さ15m、高さ2mもあるこの
ぼ
たいし
み
す
とら
たす
ほんしょうこじ
ないよう
”浮き彫りのサッタ太子、身を捨てて虎を助けるという本生故事である。その内容は“マ
う
カラダ国の3人の太子が郊外へ遊びに出かけると、飢え死にしかけている母虎と、その回
た
もの
さが
ひき
とらのこ
み
すえっこ
たいし
み
す
こく3にんたいしこうがいあそでうじははとらまわ
りで食べ物を探している7匹の虎の子を見つけた。末っ子のマカサッタ太子が、身を捨てて虎を助けようと、崖の上から母虎の前へ飛び降り、血管を切って彼らに舐めさせた。ところが、虎は体力を回復すると、サッタ王子を食べてしまった。”というものである。このレリーフは3人の王子の出かける様子、虎を見つけ崖から飛び降り虎に食べさせるという場面が描かれ、その規模や芸術性は、龍門石窟賓陽洞の身を捨てて虎を助けるの壁画を凌ぎ、世界でも類のないほど素晴しいものである。北石窟寺は唐代の窟龕が最も多く、70%以上を占めている。第222窟は唐代に開かれた窟の中では最も規模が大きく最も
づくりぞう
いじょう
し
だい
くつ
とうだい
ひら
くつ
なか
もっと
きぼ
おお
もっと
しの
せかい
るい
きたせっくつじ
とうだい
くつがん
もっと
おお
ばめん
か
きぼ
げいじゅつせい
りゅうもんせっくつひんようどう
み
す
とら
たす
へきが
3にん
おうじ
で
ようす
とら
み
がけ
と
お
とら
た
とら
たいりょく
かいふく
おうじ
た
とら
たす
がけ
うえ
ははとら
まえ
と
お
けっかん
き
かれ
な
造像が多い窟である。その大きさは、高さ間口奥行きとも6mで、中には美しい仏が
でし
たい
ぼさつ
たい
たいいじょう
ほとけ
ぼさつ
う
ぼ
おおくつおおたかまぐちおくゆなかうつくほとけ
いったい
一体、弟子が2体、菩薩が2体、そのほか300体以上の仏、菩薩の浮き彫りがあり、そ
の優しい微笑みは我々に唐代の経済の豊かさ、仏教の隆盛さを語りかけているようである。
また
きたせっくつでら
ずい
とう
そう
きん
せいか
げん
じだい
めいき
いじょうのこ
やさほほえわれわれとうだいけいざいゆたぶっきょうりゅうせいかた
又、北石窟寺には隋、唐、宋、金、西夏、元の時代の銘記が150以上残こされてい
る。
ごうすい
しん
ちょくどう
合水の秦の直道
ごうすいけん
合水県は甘粛省の最も東にあり、県内の子午嶺は1,600㎢面積を持つ大森林で
そうめんせき
し
こくどう
ごうせん
しごれいさんみゃくしんりんちく
おうだん
しん
かんしゅくしょうもっとひがしけんないしごれいめんせきもだいしんりん
けん
県の総面積の65%を占めている。国道309号線が子午嶺山脈森林地区を横断し、秦の直道はその子午嶺の主脈に沿って北へと延々80㎞も延びている。沿線にはのろし台、
はし
じょうへき
ふるいてら
びょう
せっくつ
かしょ
ふるいたいぼく
てんたか
そび
ふうこう
しごれい
しゅみゃく
そ
きた
えんえん
の
えんせん
だい
ちょくどう
つち
土の橋、城壁、古い寺や廟、石窟などが12ヶ所もあり、、古い大木が天高く聳え、風光
めいび
せかいてき
ゆうめい
”こうがこぞうごうすいけんみあま
明媚なところである。世界的に有名な“黄河古像”はここ合水県で見つかり、100余りある石像は省内石像10指に数えられる。塔々湾の塔は、中国風で最も古い塔である。
すいれいじ
せきぞう
しょうないせきぞう
し
かぞ
とうくりかえしわん
とう
ちゅうごくふう
もっと
ふる
とう
翠嶺寺、保全寺、八卦寺、曹家寺、連花寺、清涼寺、華厳寺、安平寺などの八大寺院は仏教
せいち
ごていし
ぼくけいえいてんしょうだい
とうおうふん
りょこうしゃ
き
い
ほぜんじはっけじそうけじれんかじせいりょうじけごんじあんへいじはちだいじいんぶっきょう
の聖地であり、午亭子、穆桂英点将台、唐王墳などは旅行者にたいそう気に入られている。千年サブドナツメや太白瓦川の紫牡丹は共に中国一である。
せんねん
たいはくかわらかわ
むらさきぼたん
とも
ちゅうごくいち
ごうすい
合水は史上秦の直道として知られている。秦の直道は始皇帝が中国を統一した後、
きょうか
きょうど
しんにゅう
ふせ
しこう
ねん
きげんぜん
しじょうしんちょくどうししんちょくどうしこうていちゅうごくとういつあと
しはいりょく
支配力を強化し、匈奴の侵入を防ぐため、始皇35年から37年(紀元前212年―210年)
けんぞう
かんよう
しん
くはらぐん
ぜんちょう
り
いちだいこうつうろ
ごうすい
にかけて、建造した咸陽から秦の九原郡までの、全長1,800里の一大交通路である。合水
けんない
ちょくどう
みなみ
ねいけん
けんざかい
ていし
しごれいしゅみゃく
そ
きた
い
はないけけん
県内の直道は、南は寧県との県境5亭子から子午嶺主脈に沿って北へ行く、華池県と
の境界麻子喓峴までで、道幅約5m、長さ80㎞ほどであり、沿線には歴代に築かれたのろし台、砦、廟などがある。長い年月が経っているための自然破壊、或いは森林の増加に伴う喪失にもかかわらず、その跡は今でもはっきりと確認でき、当時の秦の権力の大
かいま
でき
しん
ちょくどう
かんこう
あら
こだい
ともな
そうしつ
あと
いま
かくにん
とうじ
しん
けんりょく
おお
だい
とりで
びょう
なが
ねんげつ
た
しぜんはかい
ある
しんりん
ぞうか
きょうかいましようけんみちはばやくながえんせんれきだいきず
きさを垣間見ることが出来る。秦の直道は観光スポットとして新たに開拓され、古代
ちゅうごくじん
中国人の偉大な事業を鑑賞できると同時に子午嶺の鬱蒼とした風景を堪能できる。
ねん
しん
ちょくどう
しょうきゅうぶんかほごたんい
してい
いだいじぎょうかんしょうどうじしごれいうっそうふうけいたんのう
1993年、秦の直道は省級文化保護単位に指定された。
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