中日両国におけている茶文化の略説
1. 文化と茶文化の定義について
文化は人間の生活様式の全体である.人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体である.それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた.そのうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産である.文化は人類によって創造するとともに人類と社会の発展を進んでいる.茶文化の定義について先学の大家たちはそれぞれ独自な定義を下しているが、その中に代表的な論述をまとめて、次のようになる.茶文化は茶を担体として諸般の文化を伝え、茶と文化有機融和で、一定の時期の物質文明と精神文明を含んで体現することである.
茶道は茶文化を直接に表現するの形式の一つである.今の茶道は茶の湯によって精神を修養し礼法を究める道である.鎌倉時代の禅寺での喫茶の儀礼を起源として、室町時代の村田珠光に始まり、武野紹鴎を経て千利休が大成、侘茶として広まった.利休後は表千家・裏千家・武者小路千家の三千家に分かれ、ほかに多くの流派がある.
茶道は中国から日本へ伝えられ、日本伝統文化の代表として、中国と日本両国の文化の特徴をもっている.だから、茶道は日中交流の結晶や証明とも言われている.今の日中関係は時々困境に陥っている.中日両国の国情は異なり、異なる見解があるのは当たり前だとされている.しかし、交流が足りないのも一つの重要な原因である.日本の文化を理解することができなければ日本語を勉強するや日中交流の時もうまく行くはずがないであろう.茶道について研究することによって、日本との文化理解を促進することに大きな意味を持っていると思う.
2.茶の起源と茶道の発展
2.1 茶の起源
「茶之為飲,発乎神農氏」陸羽の『茶経』にそうのべている.紀元前2700年頃の事、中国古伝説中の帝王であった炎帝神農は医術の神と言われ、人々に火の使い方や、食べ物の採り方などを教えた.ある日この神農が釜で水を沸かしていたところ、数枚の木の葉が釜に入り、これを一緒に煮出すと香り良く、水色も美しく、さらに飲むと味も良いので、人々にこれを教えた.実は、これが茶の葉であったと言われている.茶に関する最古の資料として、前漢の宣帝の時代の王褒が奴隷売買の契約書を基に著した「僮約(前59年)」という書物に、「武陽買荼(武陽で荼を買いなさい)」、「烹荼尽具(荼を煮る道具を整頓しなさい)」といった記載があり、後漢の頃には曹操の従医も務めた名医華佗も『食経』中で、やはり茶の薬効を謳っている.
茶樹の起源に関しては近年科学的な研究の進歩から、大体その起源となった土地は割り出されている.以前は茶樹の起源に関してはアッサム起源説が有力だった時期もあるようだが、現在ではほぼ中国をその発祥の地とすることにほぼ異論はないようである.そういった中で橋本実氏はおおよそ茶樹の起源の中心地を雲南・四川に特定している.(橋本実著『茶の起源を探る』淡交社)
中国は茶の木を最も早く発見し、利用した国であり、お茶の祖国とも言われている.文字の記載が示しているように、中国の人たちの祖先は3000余年前に茶の木を栽培し、利用するようになった.しかし、中国のこの面における人類に対する貢献は、主に最も早くお茶という植物を発見し、それを利用し、それを中国、アジア及び全世界で輝く独特な茶の文化に発展させたことにある.中国は茶の呼称、お茶についての知識、茶の木の栽
培、加工技術を世界に伝えたのであり、世界各国の茶は、直接あるいは間接に、中国の茶とつながりがある.
2.2 茶文化の発展
三国以前茶文化は啓蒙する.茶は物質形式として他の人文科学にしみ込んで、それで茶文化を形成することが出現していた.
晋代、南北朝茶文化の萌芽.文士は飲茶ことが勃興につれて、茶に関連した詩詞歌賦も多く出て、茶はすでに一般的形態とした.
唐代の茶文化の形成.780年陸羽は「茶経」を著したことは、唐代の茶文化形成のシンボルである.それは茶の自然と人文科学の二重性を含めて、飲茶芸術を研究して、儒、道、仏を飲茶中に入って、中国茶道精神を創造していた.唐代の茶文化の成形は禅の勃興と関連している、寺院は飲茶を提唱、寺周囲に茶の木を植え、茶の礼を制定して、茶の堂を設けて、茶の端を選んで、専ら茶の活動を行う.唐代形成の中国茶道は宮廷茶道、寺茶礼、文士茶道と分かれている.この時代日本は中国に大量の遣唐使を派遣して、茶道は日本に伝えられた.
宋代茶文化の栄え.宋代の茶には大きい発展がすでにあって、茶文化の発展を推進して、文士中出に専門飲茶社会団体を顕わしている.役人組成した「スープ社」が、仏教徒の「幹人社」など.宋太祖は特にちゃを好んで、宮廷に茶の機関を設立する.茶は貴重品として国外使節に与賜う.つきましては下層社会、茶文化はさらに活発で、民間の斗の茶の風は起きて、お茶を煮る、採集、加工などいろいろな変化が起きた.当時、唐代の団茶に成り代わって、碾茶(ひきちゃ)あるいは挽茶(ひきちゃ)と呼ばれた抹茶が主流とな
っており、匙でかき混ぜたり、茶筅やササラ状の竺副師という道具などで点てて飲んでいる.その時、日本では平安時代末期から鎌倉時代になる、宋で茶とその飲み方を覚えた日本臨済宗の開祖栄西は、帰国した際に長崎の平戸に茶を植えたとされている.栄西は著した『喫茶養生記』は、日本で最初の茶の本とされ、栄西自身は茶の開祖ともされている.
明、茶文化の普及.茶の類の増加、お茶を入れた芸事は以前と違って、茶器の様式、素地、紋様はおおくなっている.清朝茶の輸出は正式な業界に発展して、茶書、茶仕え、茶詩は数え切れない.
3.1 唐代と遣唐使
唐代中国の茶道が形成の時期で、日本から多くの遣唐使が中国へ派遣された.
いつ茶が最初に日本へ伝わったのかは定かではないが、奈良時代には遣唐使や中国から日本へいくの僧侶が茶を伝えられたと考えられてる.日本で茶について、文献に登場する最初の出来事は、天平元年(729年)に聖武天皇がおこなった行茶の儀である.一条兼良の『古事根源』や大典禅師の『茶経詳説』には、天皇が宮中に僧侶を召して般若経を講読せしめ,二日目に茶を賜ったとの記載されている.この茶が唐から輸入された団茶であったと言われている.
平安時代に入り、806年に弘法大師空海が中国から茶種を持ち帰るという謂れ(「弘法大師年譜」)がある.平安時代にはいつでも中国一辺倒の時代思潮は相変わらず、多くの留学生や留学僧を中国に送り込むのであったが、最澄や空海もこのような時期に留学した.これらの使節、留学生、留学僧といった最も知識欲に満ちた人々に、当時の中国の喫
茶の風習は大きな感銘を与えたようである.だから、それらの人々が日本喫茶歴史への貢献もいうまでもない.よく知られた坂本の日吉茶園には、最澄が天台山から茶の実をもってかえって植えたといい、日本最古の茶園だという『日吉茶園の碑』が現在も立っておる.この時代は日本茶文化の啓蒙だと思う.
3.2 宋代と栄西
平安時代末期から鎌倉時代になると、日本と中国の国交が再開された.
当時の中国では、唐代の団茶に成り代わって、碾茶(ひきちゃ)あるいは挽茶(ひきちゃ)と呼ばれた抹茶が主流となっており、匙でかき混ぜたり、茶筅やササラ状の竺副師という道具などで点てて飲んでいた.
宋で茶とその飲み方を覚えた日本臨済宗の開祖栄西は、帰国した際に長崎の平戸に茶を植えたとされる.栄西が茶を持ち帰った意図は茶の薬効を法の功験とするためだったようで、「喫茶養生記」で五臓に対する茶の効用、栽培法、製法を説き、三代将軍源実朝が宿酔で苦しんでいる際に、一服の茶とこの喫茶養生記を献じたと『吾妻鏡』は伝えている.
栄西禅師について禅をきわめた上人は、同時に栄西から茶も学んた.は奈良仏教の華厳宗を復興させた僧で、「の茶十徳」を説く中で、座禅修行の妨げとなる睡魔を払う「覚睡気」の効用をとくに強調して喫茶を奨励したため、禅宗のみならず華厳宗その他の宗派にも茶は広まった.
同じく栄西に師事し後宋で修行した道元が喫茶、行茶、大座茶湯などの茶礼を制定
するに至って儀式化され、ようやく禅宗において茶の作法らしきものができたのである.
4.茶道の精神
「一期一会」、つまり、今日一緒にお茶を飲むことも何か縁ですから、この機会を大事にしようということである.
茶道は、精神主義の面が強く.茶道の心は「わび」の言葉で表されている.「わび」の美意識を文字で説明するのはなかなか難しいが、「静かに注んで落ち着いた味わい」といった意味である.生活態度としては、「おごらず、つつましく」ということになる.茶道のもう一つの精神的境地に「さび」がある.俳譜の味わいの表現でもあるが、これは「枯れた趣」である.あっさりとしている中に深い味わいを感じさせることである.
茶室や道具などの取り合わせを見ると、「俗世界を離れ、かつ優美で趣のある」風流に通じる側面もある.また、千利休の次の和歌に茶の湯の真髄が込められている、と見ることもできる.「茶の湯とは ただ湯をわかし 茶をたてて 呑むばかりなる 事とるべし.
日本の茶室は静かな自然環境に囲まれて、とても簡素で落ち着いた雰囲気がある.そして、お互いに言葉も交わさずに礼と尽くしているところは「以心伝心」ということである.
または、千利休の四規〔和敬清寂(わけいせいじゃく)〕と七则(りきゅうしちそく)から見れば、茶道の真髄を理解できる.
5茶道から考えたこと
日本の茶道が、文化的にも洗練される一方で、社会の良い風潮をふく.今の世の中で、商品がさまざま、物欲が膨れの上、生活のリズムが早くなってきて、競い合うに間にそわそわして落ち着かない人間が、心のバランスが壊れやすくて、人間関係に悩んでいく.それに反しての茶文化が、上品で健康的の文化として、人の心を和やかさせることができ、バランスを取り戻される.
中国から伝われた茶の湯は、日本で独自の発展を遂げ、日本の風土や日本人の心情に分かった伝統文化としての茶道となった.茶道は時代とともに形の変化は見られるが、その精神は変わることなく上に、いっそう豊かになってきた.利休没後400年を経った、海外への紹介や普及が盛んに行われている.
二十世紀八年代以来、日中の間の茶文化交流が頻繁になってきた.その一方、日本茶文化が、中国に伝え回すという現象もあった.その中で、単のお茶あるいは茶道の形だけではなく、今では当たり前のように飲んでいる缶やペットボトルのお茶ドリンクも登場した.これからも、お茶が、いろいろな分野に広げている.新しい茶文化が形成しつつある.
摘自:日本茶文化大全 (ALL ABOUT TEA [日本茶篇])
书籍作者:ウィリアム・H. ユーカース著
图书出版社:知泉書館 上书时间:2010-07-31
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